2014年5月21日水曜日

鳥海山 幸治郎沢のこと


2014年5月19日のことです。

この日はとても天気がよく、鳥海山がとてもきれいでした。

今年の4月から、とある外仕事を一緒にやっている70歳代半ばのおじいさんに、なんとなく「鳥海山きれいですねー」と話したら、「鳥海山にはうちの爺さんの名前がついている場所があんなやのー。」と返されました!



その瞬間心の中では興奮しましたが、冷静に「それはどこなんすか?」と私、おじいさんは「幸治郎沢だけどわかるか?」と・・・、その後強い日差しと水面からの照り返し、力強いガソリンエンジンの音の中、短時間ですが私的に大変興味深いお話を、当事者のお孫さんからお聞きすることができたので、この場に記録しておこうと思ったものです。

幸治郎沢の名前になった人は「松本幸治郎」さんという人で、その昔、大物忌神社蕨岡口之宮から山頂を参拝する人達の先達(案内人:ガイド)として働いていたということでした。
先達としての階級は高い地位にあった方で、同時に山頂神社や河原宿などへの荷揚げもしていたとのことです。

参拝のルートは、大量の荷揚げの荷物を担いで上寺集落の宿坊を夜に出発し、参拝者の道案内をしながら杉沢、横堂、河原宿を経由し、夜明けに山頂に到着し参拝が済んだら同じルートを下山するということでした。

現代の快適な登山靴やゴアテックスの雨具、高機能なベースレイヤー、明るく長時間点灯し続けるヘッドランプ、超軽量な各種登山装備がない時代に、足元はわらじ、雨具はわら蓑、照明は月明かりで真夜中の登山、しかもガイドをしながら・・・話を聞いていると当時の鳥海山山頂はとても遊びでは行くことができない大変な場所だったのかなと感じました。

そして肝心の幸治郎沢の名前の由来ですが、大物忌神社蕨岡口之宮の先達として生活していた松本幸治郎さんが、仕事の合間に、蕨岡口から御浜神社までのルートを開拓したため、ということでした。25歳で一代だとすると、幸治郎沢は1900年以降に開拓されたルートですかね。
この日一緒に働いたおじいさん(幸治郎さんのお孫さん)からは、松本幸治郎さんがこのルートを開拓した理由を聞く時間がなかったのが残念でした。(また次回お会いする機会があれば聞いてみようと思います。)

ちなみに松本家は幸治郎さんの息子さん(一緒に働いたおじいさんのお父さん)まで先達をしていたそうですが、需要がなくなり昭和20年代の終わりに、上寺集落から平場に移住して現在に至るということでした。

その他、そのおじいさんからは鳥海山山頂が山形県側になった経緯も話していただきましたが、大物忌神社吹浦口之宮と蕨岡口之宮の先達が深く関わったということでした。また今は遊佐町ですが、その昔吹浦村と蕨岡村だったころにはその争いもあったそうです。

なお、一緒に仕事をしていたおじいさんは若かりし頃、鳥海山の夏登山、冬登山、スキー登山など楽しんだとのことでした。また次回お会いする機会があれば、他にもいろいろと聞いてみようと思います。
その時代の人からの直接の話は本を読むのとは一味違い、一言一言が胸に突き刺さる感じでした。「鳥海登山に対する意識が変わりそうです。」

大雑把な文章で、詳しい方にはたいした内容ではないと思いますが、今回も最後まで見てくれてどうもありがとう! (^^)/

1 件のコメント:

  1. 松本幸治郎さんの話、大変参考になりました。
    幸治郎さんの孫に当たる方と会えるなんて、世の中広いようで狭いものですね。
    何気なく登っている山道が、人の手により切り開かれ、そして昔は信仰の為、命懸けで登っていたことを考えると、安易な気持ちで山は登れないと思いました。
    また、何か貴重な情報がありましたら教えて頂けると幸いです!

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